事前知識ゼロで注文住宅に挑む

何も知らないまま丸裸で注文住宅を建てることになってしまいました。土地を購入し住友林業で2階建ての家を建築しています。

事前知識ゼロで注文住宅に挑む

2回の大震災を経験した自分が家づくりで重視したこと

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いきなりですが、これを読んでいらっしゃるあなたは大規模災害を経験されたことはありますか?

近年の日本では、地球温暖化の影響か天変地異が頻発しており、多くの方が何かしらの災害を経験していると思います。

経験された方は、その経験は後々の家づくりに於いて多分に影響を与えているのではないでしょうか?

かく言う私も、気象災害の直接的被害こそ幸いなことに経験しない人生を過ごせていますが、大地震には縁のある人生を過ごしてきました。

阪神淡路大震災と、東日本大震災です。

その記憶が我が家の家づくりにどのような影響を与えたのか、ご紹介します。

阪神淡路大震災の記憶

まだツルツルで無垢だったお年頃の記憶です。

2段ベットの上で眠る私は、未明5:46の轟音と微かな揺れに叩き起こされ、その後突如訪れた激しい揺れと、ありとあらゆるものが立てる破滅に向かう音に恐怖したまま、激しく揺れる電気の傘と紐の向こうにオモチャ棚から様々なものが落ちてゆくのをただ遠く見るだけでした。

揺れがおさまると、親父の「大丈夫かぁ?」という声が聞こえて来ました。

これが、人生で初めて経験した地震、また今でも私の人生で最大の震度7の地震でした。

地震当日の惨状

当時の我が家は地震の1年ほど前に引っ越して来た当時築20年ほどのマンションの10階に住んでいました。

寝巻きにコートを羽織り、水槽が落ちて割れた玄関から外に出て、そのまま非常階段を降りて避難ました。

同じ年頃の子どもたち数人で、駐車場の車の中に入ってラジオを聴いていた記憶があります。

日が昇り、とりあえず家に戻ることとなりました。

普段はエレベーターで直ぐにたどり着く10階の部屋ですが、非常階段をひたすら上る必要がありました。

カンカンカンカンと高い靴音を立てながら部屋に戻りつつ、途中外壁に大きな亀裂の入った階が見えたりしました。

家の中は、中身がギッシリ詰まったタンスが数十センチ前に出て来ていたり、食器棚が上下分離して中身が全部飛び出していたり、荒れ果てていました。

そして、テレビのリモコンを押しても何も反応せず、蛇口を捻っても水は出ず、ガスも出ません。

高台にあるマンションの窓から外を見ると、所々で黒い煙が上がっていました。

両親はただ部屋を片付けるのみ、私はバケツを手にマンションの前を流れる川に水を汲みに行く様命じられました。

地元では清流で有名な川で、川遊びは夏の風物詩でしたので川に行くのは全然問題ありませんでした。

が、水のタップリ入った重たいバケツを手に10階まで非常階段を上がることは、同級生の中でも体の小さかった自分には非常に辛い行為でした。

終わらない片付けと停電したままの家の中では眠れず、その晩は車に乗って近所の中学校に避難しました。

中学校のグラウンドには多くの車が停まり、既に満員の校舎内には入れなかった我々は車の中で眠りました。

ライフラインの復旧に要した時間

翌日、どこからか「電気は復旧したようだ」という情報を手に入れた親の言葉で帰宅、無事に電気は復活していました。

これにより、良くも悪くもテレビが映る様になり、我が街神戸に何があったのかを初めて知ったのでした。

窓の向こう側では、遠くでまだ煙が立ち昇っていたと思います。

一方、水とガスは相変わらず来ておりませんでした。

また水汲みの苦行です。

エレベーターは復活していたと思いますが、既に幼い精神はズタボロでした。

マンションの同じフロアの方から電熱棒を借りられたことにより、それでお風呂の水を温めてお風呂に入られた記憶があります。

お風呂の蓋には電熱棒の熱で焦げて溶けた痕が、その後数年間付いたままでした。

地震後2〜3日して親に「放心状態だな」と言われたのは何となく記憶がありますが、恐らく私は相当なショックを受けていたのでしょう。

結局その日?か翌日には車で大阪に出て、親父の友人宅で一泊、次の日には汽車を乗り継いで母親の実家のある日本海側の街にたどり着きました。

親父だけは仕事があるからと関西に残り、しばらく会社の寮に入って生活していた様です。

自分は、1ヶ月?2ヶ月?は真っ白な雪化粧の日本海側で生活をしました。

その間、地震から1週間後には水道が、1ヶ月ほどして都市ガスが復旧したらしいです。

その報を受けて、一応の生活ができそうだとのことで神戸に戻りました。

我が家が有ったのは比較的被害が軽微なエリアでしたので復旧は早かった方でした。

飛んだタンス後日談

地震から数年後に当時住んでいた部屋から引っ越したのですが、その時にタンスの下から小銭がたくさん出て来ました。

地震の時に親父が箪笥の上に置いていた小銭箱から溢れ出た小銭が、長い歳月を経てタンスの下から出て来たのです。

地震から復旧の際は、前に飛び出て来たタンスを壁際にずらしただけだったので、気づかなかったようです。

地震の時はタンスが宙に飛び跳ねたのでしょうね。

東日本大震災の記憶

既に就職して数年、その日は東京の事務所で会議をして、夕方から決算前の棚卸しをする予定でした。

1階事務所の奥にある会議エリアで地図を広げて白熱した議論をしていた時でした。

大きな揺れが発生しました。

しかし、阪神の時に比べると全然余裕な揺れだったので、慌てふためく先輩方を横目に「この程度なら大丈夫でしょ」とか根拠のないセリフを口にしてました。

「この建物ボロだぞ!」の先輩の一言で慌てて事務所から飛び出しました。

事務所が入っていたのは昭和30年代に造られた低層ビルだったのです。

慌てて飛び出しました。

幸いボロビルは2回の大きな揺れ(都内は震度5弱〜強でした)に耐え、被害は上階倉庫の商品が一部棚から落ちた程度で済みました。

この程度の揺れでも横浜駅西口のダイエーは大ダメージを受けてましたので、事務所ビルの傷がなかったのは本当に幸運でした。

事務所が有ったのは湾岸エリアでしたので、もし東京湾に津波が来ていれば大惨事になっていたかもしれません。

あの日は首都圏の交通網が全て運休、国道を深夜まで車が列を作り、都心から徒歩帰宅する人で未知が溢れていたのは記憶に新しいです。

私は事務所から徒歩15分の場所に一人暮らししていたので帰ることも出来たのですが、ともかく1人でいるのは怖かったので、帰宅難民組と事務所で深夜まで酒盛りしてました。

結局、日付の変わる頃に「帰れるヤツは帰れ」と追い出されましたけどね。

約1週間後、原発事故の直後に仙台まで救援物資を運んだ話は別の機会があれば。

2度の震災から学んだこと

これら2回の大きな地震の体験、また海外生活での超高層マンション最上階暮らしの経験などから、以下のことを新居で災害対応として行いました。

最低限の電気は確保したい

まずは非常時に電気を使える体制の確保です。

太陽光発電とエネファームのダブル発電体制で、昼も夜も最低限の電力を確保できるようにしました。

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非常用コンセント

本当は蓄電池も入れておきたかったのですが、置かなくて良かったです。

ウチの屋根面積では余るほど発電できないことが、住んでから分かりました。

そもそも家庭用蓄電池は高すぎるので、早々に採用は見送りました。

背の高い家具は置かない

これは意識したわけではありませんが、タンスが宙を舞ったり、食器棚が大惨事になった経験から、背の高い家具・重たい家具を置く事には非常に慎重になったのでしょう。

我が家で背の高い収納は食器棚、本棚の2つですが、いずれも造り付けとなっており、たとえ中身が飛び出しても収納そのものは倒壊しないつくりとなっています。

クローゼット内の収納は腰高程度のプラスチック棚ですので飛び出して襲い掛かられる心配はありません。

よくホームセンターなどに売っている家具の倒壊防止ゴムなどには無縁です。

ただ、これって注文住宅としては別に特別なことをしていません。

必要なところに必要な家具を作り付けてもらったのみです。

居住エリア

会社から非常に遠くに住むと、仕事中に万が一の事態が発生しても帰宅難民となりますよね。

ひょっとしたら、転職の際に都心の会社ではなく少し郊外にある今の会社に導かれたのも、このような潜在意識があったからかもしれません。

もともと会社から近い場所も嫌だけど、あまりにも遠い場所に住むのは嫌だなという意識はありましたが、結果的になるべく帰宅困難になるリスクの少ない場所に住むことになりました。

会社から家までは、3時間ほど歩けば帰ってこられるでしょう。

背の高いビル群はあまり多くない、広い道を歩いたり、河川敷を歩いて帰ることができます。

3.11のあの日、多摩川に架かる橋が落ちなくて良かったですね。

都心の雑居ビルが倒れて道を塞がなくて良かったですね。

 

今日は1月17日、幸い自分の周囲で直接お亡くなりになった方は居ませんでした。

3回目は経験したくありませんが、この地球に生きている限り、無いとは言い切れません。

また、地震以外の災害もいつ襲ってくるとは限りません。

1日でも平穏な日常が続きますように。

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